森の力

古い森を絶やさないようにって、ずいぶん骨を折っていらっしゃるんですもの。あなただって、この方のお話をよくお聞きになったら、きっと感心しておしまいになるに決まっていますわ。この方のお話だと、森は地上を装飾し、人間に美の理解を与え、荘厳な気分をおこさせるものなんですのよ。また森は、荒い気候を柔らげます。気候の柔らかな国では、自然との闘争に力…
コメント:0

続きを読むread more

具体性の認知

われわれの認識生活では大抵、分類し、図式化し、等級化し、抽象する。われわれは世界の性質をありのまま認知するというより、むしろ、自分の内面世界の構造を展望しているのである。大部分の経験は、われわれのもつ範疇や構造や概括の体系によって濾過されるが、このことは、シャハテルもまたその古典的な論文「児童期健忘症と記憶の問題」で指摘した通りである。…
コメント:0

続きを読むread more

至高経験 マスロー

 至高経験は善であり、望ましいばかりで、決して悪だとか、望ましくないものとしては経験されないのである。経験は本質的に正当なものである。経験は完全で完成してものであり、それ以外のものをなんら必要としない。経験はそれ自体十分のものである。本質的に、必然的で不可避のものである。それはまさにあるべき姿である。それは畏怖と驚嘆と驚愕と卑下、それに…
コメント:0

続きを読むread more

無疑曰信(むぎわつしん)

 疑いなきを信という。三大秘法の大御本尊の大功徳を絶対に信じ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学を最高唯一と信ずることが、仏法の根本である。  たとえ一時的には罰を受けようが、病気になろうが、家が焼けようが、どんなことがあっても御本尊を疑わない。大聖人の仰せどおりに信心修行をまっとうしきる――これが無疑曰信であり、その信心をしている人が成…
コメント:0

続きを読むread more

信解の信

われわれは、友人を信じ、親を信じ、また自己を信じ、あるいは本を信じ、人の話を信じ、あるいは、新聞に報道されたことが事実であると信ずる。信じたり、信じなかったりすることが現実の生活であろう。生活から、信ずるということを取り除いたら、あとになにが残るであろうか。社会というものの本質が、おたがいに信頼しあい、尊敬しあって、初めて成り立つもので…
コメント:0

続きを読むread more

舎利弗

 舎利弗を空、仮、中の三諦に立て分け、またその漢語訳の「身子」を色心の二法に見ていくということと、釈尊の十大弟子の一人である舎利弗との関係を考えてみよう。たしかに、舎利弗という名の人は実在していたに違いない。実に頭がよく智慧第一といわれるぐらい、釈尊の説法をよく理解した人いわれている。しかし、法華経は、万人に通ずる方程式を示したものであ…
コメント:0

続きを読むread more

仏教上の経とは

 経とは、仏典の経文のことだと、世人は思っている。しかるに仏教上の経とは、決してそれだけを意味するものではない。宇宙の森羅万象の語言、動作、ことごとく経である。賢哲の言動も経であれば、一凡愚のさけびも経である。この経は、そのもの自体の真理と価値を表明する。ゆえに非情より有情の経は高く、有情のうちでも、ネコ、イヌより凡夫の経が高いのである…
コメント:0

続きを読むread more

完全な人間

ユイグ:こうして、人間について引きだそうとしている概念がこの私たちの対話を通して、明確になってきたわけですが、必要なことは、完全な人間、全体的な人間をめざすことです。それを私は、歴史的な意味においてでなく、もっとも広い意味で、ヒューマニズムと呼びましょう。そして、この完全な人間とは、三頭立ての馬車になぞらえられます。一頭は感受性であり、…
コメント:0

続きを読むread more

短気

池田:人間だれしも欠点をもっています。これにも、身体的・精神的の両方がありますが、短気という一例を考えてみましょう。短気といえば性格的欠点と見られがちですが、逆にいえば、行動的という長所にもなりえます。それは、そのあらわれる場面によって、欠点ともなれば長所にもなるわけです。もし、このことを自覚して、欠点としてあらわれる可能性が大きい場合…
コメント:0

続きを読むread more

境智冥合

 舎利弗が法華経の説法を聞いて、いったい何を悟ったのか、それは、事の一念三千の南無妙法蓮華経を悟って成仏したのである。この妙法に合掌することが、境智冥合であり、真の合掌になるのである。ゆえに舎利弗にせよ、凡愚のわれわれにせよ、事の一念三千の当体に向かって唱題修行するとき、空仮中の三諦、法報応の三身を覚知することになるのである。 一…
コメント:0

続きを読むread more

真実の自由は智慧によって

池田:”地獄”とは、日本語の意味は、大地の中にある牢獄ということで、いうまでもなく、牢獄とは自由のないところであるからです。仏教の教えにおいても、地獄を説明するのに、縛られ繋がれて自由がないことだといっています。  それに対して、仏とは覚り、智慧を得た人ということであって、それだけをみると、自由という概念と無関係のように思えます。しか…
コメント:0

続きを読むread more

「宿業」

池田:宿業は、その個体が発生したとき、すでに生命の根源にはらまれている業をいいますが、いまいったことからすると、それには、生理学的な業と心理学的な業とが含まれるということになります。  生理学的な業とは、体質とか身体上の遺伝的な特徴を形成するもので、一方、心理学的な業とは、精神的資質の基盤をなす潜在的な要素をつくっています。そして、生…
コメント:0

続きを読むread more

意識とは

池田:唯識論は、この”識”を焦点にすえて、生命の営みの過程をとらえ、さらに、生命の内面の領域へ解明の歩みを進めていきます。  まず、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の各感覚器官のそれぞれに”識”があるとされます。たとえば眼の識は、眼という感覚器官をとおして外界を認識します。しかし、これらの”識”は、一面的な認識しかできませんから、そこから伝…
コメント:0

続きを読むread more

山が険しいほどより大きな喜びが

池田:自己と外界との関係において得られる喜びも、不動の強い自己が確立されれば、いっそう幅が広くなって多くなりますし、いっそう長つづきするものになります。たとえば、山に登ることは、病気で体力のない人や、山登りの技術も、その山についての知識もない人にとっては、たいへんな苦しみであり、また危険なことでしょう。しかし、健康で体力があり、技術も知…
コメント:0

続きを読むread more

逆流性食道炎

病院で「逆流性食道炎」と診断されたら、治療はコウケントーで行うことをおススメします。 服薬による治療法もありますが、やはり、副作用の危険性は避けたい。 ストレスに原因があるのなら、光線をあてることでリラックスする効用もあります。 光線治療の方法です。 カーボンは、3001と4008を使います。 足の裏を10分 膝・腹・腰を各…
コメント:0

続きを読むread more

円融三諦の原理

池田:空諦とは生命のもつ知恵の働きで、たとえば花が咲いたり、人間が話をしたりする、それぞれの行為をとおしてあらわれる存在それ自体の活力のようなものが空諦の側面です。  仮諦とは「すべての生命体は仮に和合して存在している」との観点から、その生命体自信を調和あるものとしていく側面をいいます。  また中諦とは、一切の存在の根底にあって、そ…
コメント:0

続きを読むread more

仏教医学の特徴

池田:中国の天台大師は、病気の原因について四大の不順は最も表層的な場合にすぎず、他に五種類の場合があることを解明しています。その最も深層に原因をもつ場合が、業による病です。そこに、人間心理からさらに生命の深層に光を投げ入れた仏教医学の特徴があるのです。九識論にみられる生命の深層世界への仏教の探求の軌跡は、そうした心身にわたる病気に取り組…
コメント:0

続きを読むread more

煩悩による心身の乱れ

池田:仏教では数多くの煩悩を明かにし、この煩悩によって心身の乱れがひきおこされるとします。そして、この煩悩を生ずる原因は、業としての各人の生命の根源にはらまれたものにあるとするのです。  仏教医学の観点からすれば、たとえば精神分裂症は、さまざまな煩悩による自我の分裂ととらえます。躁うつ病は、煩悩の働きによって生命のリズムが周囲のリズム…
コメント:0

続きを読むread more

原初の統一性への復帰

池田:仏教が、その信仰実践の根本として教えているのは、あなたがいわれた「万物がそこから出た原初の統一性への復帰」ということにほかなりません。この”原初の統一性”を仏教は「妙法蓮華経」と説きました。そして、仏教は、この根源の法に、”南無”することを教えます。”南無”とはサンスクリット語であり「命を帰する」「そこへ帰って一体化を取り戻すこと…
コメント:0

続きを読むread more

「空虚」を意味する「空大」

池田:自然の調和の破壊は、日・水・風の巨大な災いをひきおこすとともに、私たちの生命の拠って立っている土台を破壊し、滅亡を招くことになるのです。 もう一つの空大は、空虚という意味の示すように、地・水・火・風の四大を包む広大な宇宙の空間であるとともに、地・水・火・風すべてを生み出す根源のエネルギーを秘めた”場”それ自体でもあります。それは…
コメント:0

続きを読むread more