テーマ:生活

新陳代謝の低下をまねいた

デルボラフ:農業の生産性向上は、土壌の質を犠牲にするばかりか、動植物界にも負担をかけることになります。西ドイツでは一九三八年から六六年のあいだに農業生産は倍増し、六〇年から六九年までに、さらに五割増大しました。これは化学肥料と殺虫剤の投入の増大に負っています。  ここに、生態系のうえに悪循環が生じます。つまり、経済性という理由から、輪…
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廃れることのないことを語り、書く。

 文章が読者の心に訴える効果は、その含む思想の深さによって数学的に測られる。それはどのくらい水を汲み上げるか。もしもそれが人を目覚めさせて思索に導き、雄弁の大声によって奮起させるならば、その人心を支配する効果は広く、ゆるやかで、永久的であるはずである。読むものに教えられるものがなければ、それははえのようにその場限りで死んで行く。廃れるこ…
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口で説いただけでは抜けてしまう

 人は行動によって教えるものであって、他に教える方法はない。みずからを伝え得れば教えられるが、ことばによるのではない。与える者は教え、受ける者は学ぶ。生徒が教える人と同じ状態に達し、あるいは教える人の従う同じ原理に従うまで教育は少しも行われてはいない。一種の浸透が起るものだ。生徒が先生であり、先生が生徒となっている。そのとき教育が行われ…
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やしなえる食糧はない

池田:いうまでもなく、今後の人口増加の見通しは、あくまで、現在の増加率がつづくとこうなる、という予測です。今日でもアジア・アフリカ地域の多くの人々は飢餓線上にあり、出生率は上昇しても、それだけの人口をやしないえる食糧はないでしょう。とすれば、これまで人口増加をさまたげてきたのが病原菌等であったのに対し、これからの妨害要因は飢えであるとい…
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教師が「聖職」たる誇りを取りもどす

池田:教職は「聖職」か、たんなる労働者かという論議は、日本では第二次世界大戦後、労働運動に教師が参加するなかで、さかんにたたかわされました。  たしかに「聖職」なのだから劣悪な条件にもあまんずべきである、と押しつけることは誤りです。しかし、自らの職業、仕事に誇りをもつ人ならば、その仕事が何であれ、社会的害悪をもたらさない、正規の仕事で…
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実生活の感覚をやしないながら学習する

デルボラフ:日本でも知られているジャーナリストのイヴァン・イリッチが、社会の完全な「脱学校化」を主張したのは十五年前のことでした。すなわち、社会のガンとなっている伝統的形態の学校を、破壊すべきであり、子どもや青少年を、もっと苦痛の少ないかたちで成人としての課題習得へみちびく方法に切りかえるべきだ、と訴えたのでした。  しかし、ドイツで…
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試験という形で強要する

マスメディアが相手にしているのは”成人”です。したがって、マスメディアが提供する情報には、しばしば問題になるように、きわめて、いかがわしいものや歪曲されたものも少なくありませんが、それらを判定する力をある程度もっている人々が、その対象です。それに対し、教育が対象としてしているのは、あたえられた情報や知識を批判的に取捨選択できる力をまだも…
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七人の子どもへの公平な愛情

池田:権力に要請される理念が「公平」であることは、だれしも異論のないところでしょうが、具体的にどのようにすることが真の「公平」になるかという問題になると、さまざまな考え方があるわけですね。仏教の経典(涅槃経)には、七人の子どもをもっている両親の信条を例に引いて、慈悲の心を説いています。「その七人のこどもの中の一人が、病気にかかった時は、…
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政治権力者に支配される教育

池田:近代以後、教育が国家の事業となったことによって文盲率は低下し、国民の文化的水準が向上したことは、大きな成果です。しかし、同時に、私は、教育が政治権力者の意向によって左右され、彼らの好きなように利用されるという、巨大な弊害も生じてしまったことは、否定できないと考えます。 ・・・。  とくに歴史――自国の歴史をどう評価するかという…
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知識の連関性・統合性

池田:人間の身体の各部分が、全体のなかに繋がりあっていてこそ生きていけるように、知識も相互の連関性、全体的統一のなかに組み込まれていてこそ、意味をもちます。また、そうした連関性をもっておぼえたことは、忘れることが比較的少ないといえましょう。  そうした連関性、統合性の骨組みになるものとしての「基礎的一般教育」が必要である、と私は考えて…
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今は必要でもたちまち不要に

 たしかに、現代では、ふつうに生活していくうえで必要な知識も膨大化していますが、今の学校教育で教えている知識には、不要なものもかなりふくまれているようです。私は、一般的な観点から、知識として必要なものを厳選し、縮小するとともに、基本的な物の考え方が、じっくりと身につけられるようにすることが大切であると考えます。  なぜなら、科学・技術…
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ただノートをとるだけ

 ゲーテが『ファウスト』のなかで学生に語らせている「なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、安心して内へ持って帰ることが出来ます」(岩波文庫)というセリフは、学生のみでなく、教師もおちいりやすい誤謬を、鋭く映しだしたものといえましょう。学生もただノートをとることに汲々とし、教師も、試験で問うのは、教えた知識をどれだけ生徒が暗記して…
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学校で習ったことをすべて忘れた後に

教育の究極の目的は、人間をつくることである、と私は考えています。そして、その”人間”にとって大事なのは、知性をみがき、知識を豊かにすることはもちろんですが、それ以上に不可欠であるのが、倫理観や徳性をやしなうであると信じています。アインシュタインは「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に、残っているところのものである」(『晩年に思う…
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本性を読む光

 もしも私どもが、あまりにも長いあいだ目を貸してきたこの古い利己主義と名誉心の年代記でなく、私どもの心の奥の、広い関連をもつ本性をもっと忠実に表現したいならば、私どもは歴史をもっと広く、もっと深く、――一種の倫理的革新、常に新しく常に治癒力をもつ良心の覚醒にしたがって、――書くべきである。すでにその日は私どもを訪れており、気づかないうち…
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きびしい形式主義者

 きびしい形式主義者は幼い子供の元気と勇気を押さえ、理解力を麻痺させ、それも子供から怒りをかうのでなく、ただ恐怖と従順さと、それに圧制に対し非情な同情さえ感じさせて、子供を束縛する勢力を持っている、――これは珍しくもない事実であって、子供が大人になり、若いころ自分に圧制を加えた人も実は人名、ことば、形式などでしいたげられている子供であり…
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真理の告白

 進歩している人は文学のなかに――すべての歴史同様すべての寓話のなかに――どれほど大きな富を持っているかを発見する。詩人は変なありえない場面を描く変わり者ではなく、かの普遍的な人間が詩人のペンによって、ひとりの人にとっても真理であり万人にとっても真理である告白を書いていることに、進歩している人間は気がつく。自分自身の秘密の伝記が、自分に…
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詰め込み主義

デルボラフ:わが国でも「授業の詰め込み主義」ということが言われており、これは、授業によって全人格ではなく、その小さな一部分、つまり、知性だけが育成されていく、ということを意味しています。あるいは、あなたがモンテーニュの言葉を引いて表現しておられるように、生徒の頭を教材でいっぱいにし、判断力とか、徳性や良心などにはまったくふれられないまま…
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ドイツSGI

 日蓮大聖人の仏法を実践し広めているドイツSGIは、現在のところ千数百人ですが、独自の確固たる教義と信仰実践形態をもっていますので、そのひろまり方は徐々にですが、着実に進展していくことはまちがいないと考えています。ただ、そのためには一人一人が深い日蓮大聖人の教えをしっかり学び、身につけていく必要があります。そうした教義、仏法の法理を正し…
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阿弥陀経

 日蓮大聖人が阿弥陀経を「地獄への道」であるとしたのは、この阿弥陀経をもとにして宗派を立てた法然が、法華経の信仰は無益であると主張し、人々に法華経の信仰を捨てさせて阿弥陀経をひろめたからです。すなわち、阿弥陀如来という仏陀に先行し優越する”妙法”をけなし、それに背いているのですから、いかに阿弥陀如来の恩寵をあてにしても、救われることは不…
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それにすがれば救われる?

 またさらに、教理の探求や修行を必要としない、ただ仏陀の慈悲を信じてそれにすがれば救われると説く宗派も生まれ、これが民衆のあいだで大きな勢力となっていきます。こうした信仰において本尊とされたのは、阿弥陀如来や大日如来といった、釈尊以外の仏陀たちです。こういった仏陀は実在の仏ではなく、経典のなかにふれられているにすぎません。仏教を説いた釈…
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自身の思考・決断の勇気を失わせること

権威をもって話されることは何でも子どものように信じてしまう  一般の成人に残されている独創的な思考能力を、すべて積極的に混乱させようとする他の要素がある。個人生活や社会生活のすべての根本的な問題について、また心理的、経済的、政治的、道徳的な問題について、巨大なわれわれの文化は一つの特徴をもっている――すなわち問題をぼかすことである。…
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”法”を悟れば仏陀になれる

 ところで”法”はそれ自体では語りませんから、人々が”法”を知るためには、それを仲介する人を必要とします。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、予言者が重要な役割を占めているのは、このためである、と私は考えます。その予言者の特権的地位は、教皇やカリフなどに受け継がれ、これらが人々に対して絶対的ともいえる権威を保持することになったわけ…
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仏陀より先行する”法”

 仏教は究極に存在するものを”法”としますが、それを覚知した”仏陀”は人々に対し主・師・親の三徳をそなえているとします。すなわち、仏陀はただ”師”として人々に”法”を教え示すだけでなく”主”として人々を守り、また、”親”として慈愛します。仏教においては”法”は仏陀がつくり定めて人々に押しつけたものではなく、本来、仏陀より先行して存在して…
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大慈大悲・中悲・小悲

”慈悲について、仏教では、それが向けられる対象範囲の広がりによって、区別を立てています。  一つは小悲といって、自分に関係のある人々、つまり家族とか知人などのみに向けられる慈悲があります。第二は、中悲といって、すべての人間の生命は尊いから、これを守らなければならないとの一つの法理に立って、自分に関係のない人々へも向けられる慈悲です。第…
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愛と慈悲

池田:キリスト教の”愛”も、神学的には、さまざまな論議と定義があることと思いますが、仏教の”慈悲”にも、厳密な定義があります。根本的にいえば、弱者への慈しみの心ですが、現在は弱者でなくとも、生命の法に照らして未来には不幸な弱者となるべき因をつくっている人も、弱者と見て、これを思いやるのです。そして、その場合、不幸や苦しみには、それをもた…
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死への準備ができていない人のためには

 宗教・哲学を持ち、死生感を確立している人は、死に対峙しても、容易に受容の段階にまでいたると思われます。  仏法を信仰している人の場合を見ていると、たとえ、死に直面していることが判明しても、一時のショックからすみやかに立ちなおり、自分なりに死の意味を発見し、それを確認しつつ、死生感を深め、最後には悲しみのうちにではなく、むしろ人生を創…
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ゲーテの讃える躾法

池田:倫理・道徳の躾は、先に述べたように、人格の枠組みのなかに組み込まれる必要があります。その枠組みができる時期を、しっかりした躾なしに成長した子どもは、開放的で伸びのびしているという特長はあっても、苦難にあったときに耐える力に欠け、さらに、成長とともに強まる欲望や衝動を、自分の意思力で律することができない人間になりがちです。  その…
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苦行と瞑想

 釈尊は六年間苦行をしましたが、心身を痛めつけ、疲労するのみで、かえって開悟の妨げになるとの結論に達し、これを中止したのでした。このため、一緒に修行していた仲間が、釈尊は堕落したと軽蔑し、そこから去っていったというエピソードは有名です。  釈尊は苦行をやめ、村の娘のささげた乳がゆを食べて心身に力の蘇るのを感じ、その充実した力で瞑想に入…
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カントの「理性信仰」

池田:人間にとって同時に義務であるところの目的は、自己の完成と他人の幸福である。これを逆にしてはならない。自己について幸福を求めることは利己主義であり、他人について完成を求めることは、不満しか残らないからである――と。  私は、このカントの言葉は、生命の最高の完成としての成仏と、他者の幸福のために奉仕する菩薩道という仏教の考え方に合致…
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膝の痛みの原因は、広告の手段

  膝の痛みの原因の多くが「軟骨の損傷」と思い込まされてはないないだろうか。  さらに最悪なのは、医療薬品メーカー。かれらは、商品の販売目的のために「軟骨」を利用する。  はたして、膝痛の治癒に軟骨再生の必要があると考える医療従事者は本当にいるのでしょうか?  フロム氏は 「・・・・巨大な近代広告はこれとことなっている。それは理…
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