心すなわち識 仏教心理学では

 仏教心理学では、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という五つの感覚的意識(五識)や、これらの働きをつかさどり統合する識である第六識にあたる「意識」の底に、第七識として「末那識」、第八識として「阿頼耶識」をとらえている。
 デカルトの唱えた”考える自我”は第七識の末那識に根ざしていると考えられよう。しかし、この領域は深い理性の座であるとともに、常に煩悩に汚されていることを仏法の眼は鋭くとらえている。そして煩悩に汚され、本来の自己を狭く限定する自我意識(第七識)のさらに奥に第八識の阿頼耶識を見いだしている。これは「含蔵識」とも呼ばれるように、七識までの行為によって積んだ結果をすべて蔵している。さらに、七識等を生みだす種子となっていく。
 また、六識までは死とともに消滅するが、末那識・阿頼耶識は決して消滅することはなく、無限の過去から未来永遠にわたって続いているとも説かれている。
 ソンディの「家族的無意識」や、ユングの唱える「集合的無意識」は、広大な阿頼耶識の領域を西洋心理学の視座から垣間見たものと思われる。これら生命の深層への洞察は仏法においてはさらに深められ、中国の天台大師は、第八識の奥に人間の心身を含めて森羅万象を生ぜしめている本源としての宇宙生命へと向かい、第九識「阿摩羅識=根本浄識」を見いだしている。そして日蓮大聖人は、宇宙生命の当体そのものを覚知され「九識親王真如の都」と呼ばれたのである。
 「九識親王真如の都」の「心王」とは、心の作用の根本。「真如」とは、虚妄を離れ、不変、不改という意味である。そして「都」とは、「心王」の住処。つまり、広大にして無辺なる境涯世界のことである。
610p

『池田大作全集』第119巻
私の人間学
聖教新聞社

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