仏陀とは”覚知した人”

池田:仏教がめざし、到達し、そして人びとに教えているもっとも根本的なことは、人間自身の究極的な自己認識でした。仏陀とは”覚知した人”という意味で、その覚知したものは、結局、自己の本源的な存在そのものです。
 本能的欲望や愛あるいは慈悲は、あえていえば、生命自体の発揮するエネルギーのかたちであるといえましょう。本能的欲望は、自己の生命を維持し強化するために、外部から吸収しようとするかたちをとったエネルギーです。それに対して、愛あるいは慈悲は、他者の生命を守り豊かにするために、外部へ向けて発散されるかたちをとったエネルギーといえます。
 私たちにとって、生きるということは、この吸収と発散の繰り返しともいえるわけですが、これら二つの種類のエネルギーの発現が、自己自身にとっても、また、他の存在にとっても、生命を破壊するものでなく建設し創造する働きになっていくためには、生命に対する敬意と、生命の複雑、微妙な働き、機能についての正しい理解がなくてはなりません。
 この生命への敬意すなわち生命を尊いものとする心、感情と、生命の機能に対する理解を確立するために、最も近道であり確かな方法が自己の生命に対する覚知なのです。なぜなら、人が他者の生命を知ろうとしても、外から認識できるのは、浅い表面にしかすぎません。友情、行動やことばによってあらわせない深層の世界は、けっしてとらえることができないのです。
 真実に生命を正しく、深く知るには、内側からでなければなりません。すなわち、自己の生命を自ら観照する以外にないのです。この方向に努力を試み、完璧な覚知を達成した人が、いわゆる仏陀なのです。

『池田大作全集』第5巻 闇は暁を求めて
池田大作
ルネ・ユイグ
聖教新聞

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