方便としての死

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ここに見られる法華経の生死観は、仏の生命は常住・不滅であるとの永遠の生命観に立脚しつつ、しかも主体的に死を方便としてとらえるというのです。つまり、仏という永遠なる大生命へと導くための一つの方便として、死があるというのです。
この法華経の生死観をさらに深く、宇宙生命の根源の法のうえから把握された日蓮大聖人は、生も死も「本有」であると指摘されたのです。つまり、人々が常識的に生と死を分断し、「常見」や「断見」におちいって、死の恐怖におののいたり、死から逃避しようとしたり、また逆に死にあこがれたりするのは、すべて生死から厭離しようとしている迷いの生死観であるというのです。
これに対して、生も死もともに、衆生の生命の内奥に実在する宇宙大の仏の大生命に本来、組み込まれている契機であり、ともに仏の大生命を覚知するためのものであるというところに、悟りの死生観が明示されます。

『池田大作全集』103巻
「宇宙」と「人間」のロマンを語る
C・ウィックラマシンゲ
池田大作共著
聖教新聞社

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